魏志倭人伝の夢

甘木歴史資料館だより №51より(2012年10月2日発行)

吉野ヶ里遺跡   ‐ 佐賀平野に君臨した拠点集落 -

佐賀県立佐賀城本丸歴史館  館長 七田忠昭


一 はじめに

 
 一九八六年(昭和六一)に開始された吉野ヶ里遺跡の発掘調査は、現在も継続され、縄文時代晩期(弥生時代早期)から弥生時代の全時期、さらには古墳時代初頭にかけての集落や墓地、生活や祭祀、階層や社会組織、国際交流のありさまを知る情報を発信し続けている。
 朝鮮半島無文土器文化の流入を機に縄文時代晩期後半(弥生時代早期)に小規模な環壕集落が丘陵南端に形成され、前期の二.五ヘクタール規模の環壕集落、中期の推定二〇ヘクタール規模の環壕集落を経て、後期には四〇ヘクタールを越す大規模な環壕集落へと発展した或るクニの中心集落の姿を明らかにした。また、周辺に存在する集落群の調査などから、地域集落群の構造も次第に明らかになり、吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の初めから最後まで佐賀・神埼地方の頂点に立つ盟主的な集落であったことが明らかになってきた。
 有明海北岸地域の弥生文化は、玄界灘沿岸のそれとは様相を異にする。河川の豊富な水と肥沃な平野といった大人口の抱擁を可能にした自然環境や、朝鮮系無文土器や初期青銅器鋳型など朝鮮半島系文物の集中的出土などから理解できるように、稲作導入期から大陸文化の色濃い内容をもっていた。そして、弥生時代終末期のいわゆる邪馬台国時代には、中国城郭の城壁構造を取り入れた特異な集落構造をもつという独特な文化圏を形成していたのである(註一)


二 古野ケ里遺跡の変遷と特色
 
 縄文時代晩期後半(弥生時代早期)には、脊振出地南麓や吉野ヶ里遺跡の周辺、南部平野部で幾つかの集落が生まれていたが、吉野ヶ里遺跡では南端に環壕と考えられる壕を巡らせた集落が生まれた。弥生時代前期になると、集落は山麓鄙から平野部にかけて増加し、吉野ヶ里遺跡では二.五ヘクタール規模の環壕集落が形成された。
 中期になると、吉野ヶ里遺跡では段丘のいたるところに甕棺墓地を伴う集落が形成されたが、段丘の南部一帯では前期の環壕区域を含む二五ヘクタール超の環壕集落が形成され、その北方には多数の甕棺墓を主体とする墳墓群が営まれ、歴代の首長を埋葬したと考えられる巨大な墳丘墓が築造された。
 集落の規模や墳墓に伴う副葬品、墳丘墓の築造などからみて、中期においては、吉野ヶ里集落を中心として、周辺の河川や段丘の地域単位毎に有力な集落、それらの周囲にさらに小規模な集落が存在し、ピラミッド構造の地域集落群が形成されていたものと考えられる。
 前期集落の内部については不明な点が多いが、古野ケ里遺跡の弥生時代中期集落跡の発掘で注目されるのは、居住域と倉庫域が明確に区別されている点てある。弥生時代前期の環壕集落城と重複するかのように段丘尾根部分に多数の竪穴住居と少数の掘立柱建物からなる居住区が設けられ、間隔をもってその西方の緩斜面に多数の貯蔵穴(穴倉)群が営まれていた。もちろん居住区の住居の周囲にも住居の四倍程度の数の貯蔵穴が営まれるが、西方の貯蔵穴群は環状にまとまりをみせる貯蔵穴群が、現状で3ケ所確認されている。環壕集落外の通常の集落跡では竪穴住居の周囲に貯蔵穴が分散して存在することが一般的である。なお、竪穴住居跡や貯蔵穴には朝鮮半島系の無文土器を出土するものも幾つか存在し、集落内の南部には剣や矛など青銅製武器の鋳造関連遺構が存在し、農業生産以外に手工業生産が行われていたことを物語っている。
 中期中頃から後半に貯蔵穴に代わって登場するのが掘立柱構造の高床倉庫である。中期後半の集落拠点は、前期環壕が存在した南部の段丘頂部であるが、その西方の段丘裾部で多く発見される掘立柱建物跡が、貯蔵穴に代わる貯蔵施設と考えられる。前期の環壕集落が存在した南部段丘上には竪穴住居跡群が存在するが、従来の貯蔵穴は存在せす、倉庫とは考えにくい掘立柱建物跡数基が存在するのみである。その西方から北西方の段丘裾部一帯には掘立住建物跡が群をなして存在するが、この段丘裾部の建物跡群が貯蔵穴から高床式に変化した倉庫群と考えられる。
 このように、中期後半代においても、中期中頃迄と同様に居住織と倉庫織が明確に区別されていたことが理解できるが、前時期との違いは、高床式に変化した倉庫が段丘据の河川に近い位置に移勤したということで、倉庫に収納する米などの物資の量が増加したことと、それを運搬する手段が船へと大きく変化した結果だと推定される。後期に至っても、位置はさらに北方ヘ移動するものの居住域と倉庫域の立地関係に変化はない。後期になると、吉野ヶ里遺跡では中期の環壕区域を北方に拡大し、南北約一キロメートルの範囲を囲む四〇ヘクタール超の環壕集落が形成され、後期後半には大規模環濠集落の内部に物見櫓を備えた北内郭跡や南内郭跡、南内郭西方の倉庫跡群などの特別な区画が設けられ都市的な集落へと発展した。南北の内郭跡に見られる環壕突出部と物見櫓のセット、北内郭跡の鍵形をなす出入り口など、特殊な構造が出現している。
 後期前半の間は段丘の周囲を巡る大規模環壕によって囲まれた内側に竪穴住居を主体とする居住区を、南内郭西方の外局壕の外側に高床倉庫と考えられる掘立柱建物群を設けていた。この倉庫群は後期後半から終末期まで営まれ続けるが、その西の段丘裾部にはこれらを取り囲むかのように掘削された壕が存在しており、この倉庫群が明確に区画されていたことを示している。
 少なくとも後期後半になると環壕集落城の中部と北部に断面逆台形の環壕によって囲まれた南内郭と北内郭の二つの内郭が設けられる。これらは、後期後半(古段階)のいびつな平面形態のものが、後期後半~終末期(新段階)になって長方形に近い平面形に環壕を掘り直して営まれているが、新段階のものはいずれも後期終末期の終りとともに埋没している。
 古段階の南内郭環壕(内環壕)によって囲まれた空間は、南北約一五〇メートル、東西約七〇メートル、内部の面積約七八〇〇平方メートルで、新段階のものは南北約一五〇メートル、東西約九〇メートル、内部の面積約一一〇〇〇平方メートルである。
 北内郭の新段階の環壕は、二重の局壕からなり、円と方を組み合わせたような先端が丸いA字形の対称的な平面形態をとっている(底辺約六〇メートル、高さ約五六メートル、面積約二七五〇平方メートル)。これら内郭を囲部する環壕には各所に外側に向かって平面半円形あるいは方形に突出した部分が存在し、内側には一間×二間(六本柱、一二・七~四〇・三平方メートル)の物見櫓と考えられる掘立柱建物跡が存在する。内郭の出入り口は南内郭でニケ所、北内郭で一ケ所設けられているが、南内郭の規模が大きい正門と考えられる
出入り口の両側には内側に物見櫓が付属する環壕突出部が存在し、二重の環壕跡からなる北内郭の出入り口は二条の環壕の掘り残し部分をずらし、鍵形に折れ曲がる柵に囲まれた特殊な構造となっている。
 南内郭跡内部には物見櫓跡以外の建物として竪穴住居跡群と少数の小規模な掘立柱建物跡が存在する(平面規模は大きいが柱径が小さな建物跡も存在しており、その他特殊な建物が後の開墾で消滅した可能性はある)が、北内郭跡内部には三間×三間(一六柱、約一二・五メートル四方)の大規模なものをはじめとする掘立柱建物跡群と少数の竪穴住居跡が存在するなど、南内郭とは様相を異にする。
 倉庫群も、後期になると集落拠点の北方への移動に伴って北方(後の南内郭西方)へと移動する。後期後半・終末期に至っても、中期と同様、集落拠点に近接して多数の倉庫群を設けていたと見ることができる。後期後半以降の南内郭や北内郭の造営に伴い、その環壕区画外、南内郭跡では西方に、北内郭跡では北方に、それぞれ高床倉庫群を営んだものと見ることができる。ただし、前者では外環壕とさらに西方の壕との間の3ヘクタールという広大な範囲内に大型のものを含む多数の高床倉庫群を設けたのに対し、後者では北内郭を形成する二重環壕北方の〇・二ヘクタールという狭い区域に比較的小規模な高床倉庫群を設けており、両者の性格の違いを示しているようである。
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吉野ヶ里遺跡北内郭跡 弥生時代末期の吉野ヶ里遺跡


三 佐賀・神埼地方の集落と墓地の動向
 
 有明海北岸の佐賀平野では、玄界灘沿岸地方と同様、縄文時代晩期後半(弥生時代早期)以来、各地に農耕集落が営まれ、脊振山地 から有明海に南流する河川や河岸段丘により仕切られた小地域毎に集落群がまとまりをみせていく。それら小地域では弥生時代前期以 降、小規模な環壕集落が形成され、さらに小地域がまとまった後の1~2郡程度の地域では、大規模な環壕集落を頂点としたピラミッ ド構造の地域集落群が形成される。
 神埼地方では、主に城原川や田手川・切通川などの河川や志波屋・吉野ヶ里丘陵や目達磨丘陵によって区別された地域や、南の有明 海への河川沿い、そして海岸に、中核となる集落を中心とした八ケ所程度の小地域集落群が形成されていたことが、中小規模の環壕集 落や環壕を備えない集落跡の分布などによって理解できる。東の切通川右岸の二塚山段丘周辺では、中心集落こそ未確認だが、吉野ヶ里町・上峰町にまたがる二塚山遺跡や、吉野ヶ里町松葉遺跡、上峰町坊所一本谷遺跡など漢鏡をもつ墓地を営んだ集落が想定できるし 、古野ケ里遺跡の北東方目達原段丘上の吉野ヶ里町横田(松原)遺跡、北北東の山麓部田手川右岸に位置する古野ケ里町夕ケ里遺跡、吉野ヶ里遺跡の北西方の神埼市志波屋一の坪遺跡、城原川右岸の神埼市八子六本黒木遺跡や神埼市迎田遺跡、域原川中流域右岸の神埼市黒井八本松遺跡などの環壕集落が小地域の拠点的な集落と考えられる。また、有明海河口の城原川右岸に展開する佐賀市諸富町に数多く存在する集落は、東海地方以西の外来系土器及びそれらの影響をつよく受けた土器を多数出土するなど、吉野ヶ里遺跡など山麓部 や段丘上に存在する拠点的な集落の港津の機能をもった集落群であったと考えられる。
 同じ有明海北岸に近い福岡県小郡市一ノロ遺跡では、弥生時代中期前半の集落を取り囲む柵の平面半円形突出部内側に掘立柱建物が、中期末から後期初頭にかけての佐賀県みやき町平林遺跡では、掘立札建物群からなる集落跡の一画を直線的な溝(壕)を屈曲して巡らせた平面方形基調の環壕区画と鍵形の複雑な構造の出入口が出現した。それまで国内には存在しなかった

外的要素が、有明海北岸の集落構造に影響を与え始めたとみることができる。
 そして、後期中頃以降には佐賀平野を中心とした有明海北岸地方で、平面半円形や方形の環壕突出部をもつ環壕集落が多く出現する。特に吉野ヶ里遺跡で発掘された突出郭に伴う物見櫓と目される掘立柱建物や、鍵形に屈曲した出入口構造は、中国の同時代の城郭の城壁に付随する馬面や角楼と呼ばれる突出郭や、甕城や護城墻と呼ばれる鍵形門をもつ中国の城郭を非常に意識(模倣)した集落構造となっている(註二)。環壕突出部をもつ環壕集落跡の分布の中心となっているのが吉野ヶ里遺跡を擁する佐賀県神埼地方である。
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中国古代城郭の構造が吉野ヶ里へ 吉野ヶ里遺跡出土の古式中国製鉄器

 九州北部地方では、弥生時代前期末から銀剣・銀戈・銀矛などの青銅製利器を甕棺墓などの墳墓に副葬することが始まるが、佐賀平野においては、確実な例として吉野ヶ里遺跡田手一本黒木地区Ⅰ区の中期初頭の銅剣副葬例が初現である。中期前半になると、古野ケ里町瓢箪塚下層(吉野ヶ里遺跡の東約一.八キロメートル)や、上峰町切通遺跡(同東北東約四・〇キロメートル)、神埼市高志神社遺跡(同南約四・三キロメートル)などで甕棺墓に細形銅剣が副葬される。
 この分散傾向は、吉野ヶ里遺跡墳丘墓の出現によって大きな変化をきたした。中期前半代に築造された南北約四〇メートル、東西約二七メートルの大規模の墳丘墓では、中期前半から中期中頃末までの間に合計一四基の甕棺墓が営まれ続けた。墳丘墓の甕棺墓は後世に破壊されていたものが大半だったが、うち八基の甕棺墓から細形銅剣七点、中細形銅剣一点のほか、青銅製把頭飾二点、ガラス管玉七九点などが出土した。神埼地方における中期中頃までの墳墓に威信財として副葬されたものは、一人の墳墓に1点の銅剣であり、銅矛や銅戈の例がないこともこの地方の特徴である。
 神埼地方での中国文物の副葬例で最も古いのは、吉野ヶ里遺跡の中期前半の甕棺墓に副葬された鉄製蝶番である。墳墓以外でも、中期前半に廃棄された青銅器鋳造関連遺構から鋳造鉄斧の破片を再利用した鑿とともに青銅製素環頭付き鉄刀子も出土するなど、中期の早い段階から貴重な中国製品が流入していたことが分る。
 弥生時代中期後半になると、それまでの朝鮮半島系譜の威信財も当然中国製品に変わり、以後銅鏡が副葬品の主流となった。前一〇八年の漢の楽浪郡設置が倭への中国文物の流入の契機になったことが、『漢書』地理志に記された倭諸国の朝貢記事などによって知ることができる。
 漢鏡副葬の初現は、二塚山遺跡(吉野ヶ里遺跡の北東方約三・五キロメートル)と、吉野ヶ里遺跡の中期後半の甕棺墓に副葬された漢鏡三期の連弧文「潔清白」鏡と連弧文「久不相見」銘鏡である。その後、後期後半までの間、少なくとも一四か所の段丘上に分散して営まれた墓地の甕棺墓や土坑墓、箱式石棺墓などに漢鏡が副葬され続ける。この地方の漢鏡副葬の特徴として、中期中頃迄の銅剣の場合と同様、一棺一面の漢鏡副葬が基本となっており、二塚山遺跡や古野ケ里町三津永田遺跡(吉野ヶ里遺跡の北方約二・六キロメートル)、横田遺跡(同北東方約二.一キロメートル)などで出土した素環頭鉄刀の例などからも鉄製武器も同種を複数副葬する例はない。また、後期以降は完形の鏡を意識的に打ち割って棺外に埋め込む例が多いことも、この地方の銅鏡の副葬法として特徴的である。
 出土した銅鏡うち中型鏡は二塚山遺跡や、吉野ヶ里町三津永田遺跡、横田(松原)遺跡、松葉遺跡、坊所一本谷遺跡の五遺跡で計九点が出土し、小型鏡は二塚山遺跡や、三津永田遺跡を含む七遺跡で計九点が出土している。中でも二塚山遺跡では漢鏡三期から漢鏡五期にかけての中型・小型の銅鏡を、三津永田遺跡では漢鏡四期と五期の中型・小型の銅鏡を出土している。これらの墓地は吉野ヶ里遺跡の北方から東方の東西四・五キロメートル、南北三・五キロ訂メートルの範囲の中に存在しており、特に中型鏡は二塚山遺跡と三津永田遺跡を中心に、横田、松葉、坊所一本谷の各墓地に順を追って副葬されたとみられる。中でも二塚山遺跡と三津永田遺跡は、神埼地方の中でも有力な継続型集落が営んだ墓地と考えられる。

四 佐賀・神埼地方の特質

 墳墓の副葬品や墳墓の構造などから見た神埼地方における首長墓の動向は、弥生時代中期初頭の銅剣を副葬する墳墓の分散的傾向は、中期前半のある時期以降、吉野ヶ里集落の北方に築造された大規模な墳丘墓の築造によって収束を見せている。そして、墳丘墓への首長の埋葬が中期中頃の終り頃に終了した以後、中期後半に至って青銅利器から中国の銅鏡や鉄製武器が副葬品の主流となるが、吉野ヶ里遺跡では小型の漢鏡を副葬する女性の墳墓が1基確認されているだけで、中型以上の漢鏡を副葬した墳墓は未確認である。
 一方、中期後半以降、古野ケ里遺跡の北方から東方にかけての段丘上で営まれた墓地の甕棺墓から中型や小型の漢鏡が副葬され始め、さらに後期後半に至るまでの期間、上坑墓や箱式石棺墓を加えた墳墓に中型や小型の漢鏡とともに、中国製の鉄製武器が副葬され始める。特に銅鏡は漢鏡3期から漢鏡5期(漢鏡6期の磨かれた破片も存在)に属する長期間にわたる銅鏡が、墓地を違えるように相次いで副葬されていることは注目される。このことについて、岡村秀典は「弥生時代中期から後期にかけて、吉野ヶ里から二塚山、そして三津永田へと青銅器を副葬する首長墓が移動していたようであり、集落を単位とする族長も、平野単位の社会を統率する上位の地域首長も、安定した世襲的な権力を掌握するにはいたっていなかった」と考えた(註三)。
 しかし、吉野ヶ里遺跡の集落跡の変遷や構造、さらに地域集落群の動向をみてみると、岡村の考えとは異なった社会状況を推定することができる。即ち、中期前半に吉野ヶ里集落が大型化し、環壕集落内の居住区に伴う倉(貯蔵穴)とは別の区画に倉だけをまとめた倉庫群が設けられたことは、古野ケ里集落のみならず、クニ全体の物資を集中して管理するという仕組みが出来上がったことを示唆しており、このような地域のまとまりが大型墳丘墓の築造にも表れている。中期初頭から、有力集落のそれぞれの墓地に分散して銅剣を副葬した墳墓が営まれたものが、中期前半の末ころから吉野ヶ里壇丘墓に集中する事実は、血縁関係が希薄と考えられる成人一四人の順次埋葬から読み取ることができる。墳丘墓の被葬者は、吉野ヶ里のクニの中の有力集落から選ばれ、吉野ヶ里集落に常駐し、役割を果たした後に墳丘墓に埋葬されたクニの首長たちと考えるべきであろう。
 そして、吉野ヶ里墳丘墓への埋葬が終了した以後(中期後半以降)の首長居の墳墓の行方について考えるとき、二塚山や三津永田といった周辺の墓地に中国の権威を帯びた中型の漢鏡や素環頭鉄刀などを副葬した墳墓が大きな手掛かりを与えてくれる。中型漢鏡の副葬例を見てみると、二塚山遺跡では漢鏡3・4・5期の各一面を副葬した墳墓が三基、三津永田遺跡では漢鏡5期のものを副葬した墳墓が二基、松葉遺跡や松原遺跡、坊所一本谷遺跡では漢鏡5期のものを副葬した墳墓がそれぞれ一基確認されており、二塚山や三津永田、松原では素環頭鉄刀等の中国製武器も副葬されている。二塚山から三津永田へ、そして再び二塚山や松葉、松原、坊所一本谷など、吉野ヶ里のクニを形成する有力集落の墓地へと、威信財を副葬した墳墓が移動を続けるのである。
 後期になって集落の規模を拡大させ、終末期までに内部に様々な記念物的、かつ中国的な施設を建設するなどして都市的な様相をみせた吉野ヶ里集落の近隣で、首長居を葬ったと考えられる墳墓が確認されていない現状から、これら周辺に分布する中国の権威を帯びた威信財を副葬した墳墓の被葬者を、古野ケ里のクニの歴代の首長とみている(註四)。
 クニの首長の中期中頃迄の墳丘墓という巨大な記念物への埋葬という形から、出身集落の家族の集団墓への埋葬という形への変化の要因は不明であるが、吉野ヶ里集落に中国城郭の構造が反映されている点や、中型の漢鏡や鉄製素環頭大刀など中国の権威を帯びた文物の副葬例が多い点、中国の高官と同様に化粧用具としての銅鏡を一点のみ副葬する点などから、中国の風習の影響を受けた可能性もある。
 九州北部においては、弥生時代中期後半になると、それまでの朝鮮半島系譜の青銅製武器から銅鏡や鉄製武器へと副葬品、威信財の内容が中国製文物に変化した。福岡や糸島、唐津の平野都では、中期後半の春日市須玖岡本遺跡や糸高市の三雲南小路遺跡、後期の糸島市井原鑓溝遺跡や佐賀県唐津市桜馬場遺跡などで、多数あるいは複数の漢鏡を主体とする豪華な副葬品を有する墳墓の存在が注目され、しばしば「王墓」と呼ばれてきた。しかし、これらの地方では、漢鏡等の威信財を副葬して葬られた首長層の後期後半に至る間の存在や連続性を認めがたい。一方、佐賀平野においては銅鏡が複数副葬されることがない点は、玄界灘沿岸地方とは様相を異にしているものの、漢鏡を副葬した墳墓の数では他を凌ぎ、特に吉野ヶ里遺跡を中心とした神埼地方では、中期初頭からの銅剣副葬から、中期後半から後期後半に至るまで間、漢鏡や鉄製素環頭大刀など中国王朝の権威を帯びた威信財が副葬され続けるという特異な地域となっている。
 以上のように、佐賀・神埼地方では、中国との継続的な外交の証が認められ、この地域の首長層が中国との外交に継続的に深く関わっていたことを示すものといえよう。


註一 七田忠昭 二〇〇五『日本の遺跡二 吉野ヶ里遺跡』開成社
註二 七田忠昭 一九九六「日本の弥生時代集落構造にみる大陸的要素‐環壕集落と中国古代城郭との関連について-」『東アジアの鉄器文化』韓国国立文化財研究所
註三 岡村秀典 一九九九『三角縁神獣鏡の時代』吉川弘文館
註四 七田忠昭 二〇一〇「拠点集落の首長とその墳墓‐弥生時代中期から後期の地域集落群の動向の一例‐」『日韓集落研究の新たな視角を求めてⅡ』日韓集落研究会